利己的遺伝子とは
利己的遺伝子とは
利己的遺伝子説の本質を、簡単に説明しておこう。
利己的遺伝子説とは、リチャード・ドーキンスが提唱した進化学説である。ドーキンス説とも言える。それまでのダーウィン説に対置されるべきものだ。
ダーウィン説では、個体が遺伝子よりも優先する。個体は、自己に似た個体を子として生むことを目的とし、そのために遺伝子を利用する。
ドーキンス説では、遺伝子が個体よりも優先する。遺伝子は、自己に似た遺伝子を増やすことを目的とし、そのために個体を利用する。
以上が一般的な理解である。
ドーキンス説は、ダーウィン説と比べて、個体と遺伝子との優先関係が逆転している。では、そのことに、どんな� �味があるのか? それは、「血縁淘汰説」との関係から判明する。
ダーウィン説は、自然淘汰という発想を用いて、進化という概念をかなりうまく説明した。しかしながら、この説明に反する現象が見つかった。それは「利他的行動」である。
たとえば、ミツバチやリカオンなどでは、「自分の子を育む」という行動をとらず、「他者の子を育む」という行動を取る。これは、「個体は自分の子を残すことが自分の利益になる」というダーウィン説に反する。こうして、ダーウィン説は矛盾にぶつかった。
その後、ハミルトンは、利他的行動を説明するために、「血縁淘汰説」という学説を提唱した。この学説は「自分の血縁者を育めば、自分の利益になる」というふうに説明する。そのことで、利他的行動をうまく説明� �る。(詳細は省略。)
しかしながら、なぜ血縁淘汰説が成立するかは、判明しなかった。「血縁淘汰説が正しければ、利他的行動は説明される」ということはわかったが、血縁淘汰説というものがどこから出てくるのかは、判明しなかった。
その後、ドーキンス説が出現した。すると、そこから説明される事柄は、数理的には血縁淘汰説とまったく同様だった。ただし、血縁淘汰説と比べると、根拠が異なる。
血縁淘汰説は、何の根拠もなしに、いきなり出現した。(これはあまりにもご都合主義ふうに思えた。)
ドーキンス説(利己的遺伝子説)は、「遺伝子が個体よりも優先する」という原理を取ることで(つまり「個体が遺伝子よりも優先する」という原理をひっくりかえすことで)、血縁淘汰説と同等の� �論を出した。
両者を比較すると、結論は同じだが、信頼度が異なる。
血縁淘汰説は、いきなり天下り的に登場したので、どこまで信頼していいのかわからなかった。利他的行動を説明するだけのために出現した、ご都合主義の理論(詭弁のようなもの)だとも感じられた。
ドーキンス説では、「遺伝子が個体よりも優先する」という原理を取るだけでいい。するとそこから、いわば数学の「定理」のように、血縁淘汰説と同じ結論が出てくるのである。これはご都合主義ではない。ただの論理的な帰結だ。
こうして、ドーキンス説は、「遺伝子が個体よりも優先する」という原理を取るだけで、利他的行動を論理的に証明することに成功した。これは偉大なる成果だった。
[ 付記 ]
二つの説には、「他にもいろいろとで応用が利くか否か」という差がある。
たとえば、異なる種の「共進化」というような現象がある。これについても、利己的遺伝子説では論理的に説明できる。一方、血縁淘汰説の場合には、何も説明できないので、「共進化」については、新たに新規の学説を提出しなくてはならない。一事が万事。こんなことでは、学説としての普遍性がない。
ドーキンス説は、「利他的行動」については見事に成功を収めた。また、「共進化」などの現象についても、見事に説明ができた。しかしながら、進化のすべてを説明できたわけではない。つまり、学説としての限界もある。
(1) 超長期
一つは、超長期の問題だ。利己的遺伝子説では、「遺伝子は自己の複製を増やすことを目的として進化する」と考える。とすれば、進化するにつれて、遺伝子は自己複製の能力がどんどん向上しているはずだ。しかしながら、超長期の進化を見ると、その考えは現実に一致しない。
進化の順序を見ると、おおまかに、次の順序になる。
単細胞生物 → プランクトン類 → 腔腸類 → 魚類 → 両生類 → 爬虫類 → 哺乳類
一方、自己複製の能力(出産数)を見ると、次の順序になる。
単細胞生物 > プランクトン類 > 腔腸類 > 魚類 > 両生類 > 爬虫類 > 哺乳類
(下等生物は数万もの卵を産むことがあるが、哺乳類は数匹程度の子しか産まない� ��)
この二つを比べると、こう結論できる。
「進化が進むにつれて、自己複製の量はかえって減ってきた」
これは、利己的遺伝子説の主張に矛盾する。なぜなら、自己複製で自己を増やすことが進化の目的であるなら、「哺乳類から単細胞生物へと退化することが進化だ」ということになるからだ。つまり、「退化こそ進化だ」ということになるからだ。
こうして、利己的遺伝子説は、矛盾にぶつかる。
(2) 漸進的進化
もう一つ、利己的遺伝子説には問題がある。それは、利己的遺伝子説の原理から来るものではなくて、「自然淘汰による進化」という原理から来るものだ。
この原理からは、「小進化の蓄積による大進化」という結論が出る。つまり、「漸進的進化」である。
しかしながら、現実には、「断続的な進化」が起こる。このことを、利己的遺伝子説は説明できない。
(この件は、あとでまた論じる。)
利己的遺伝子説を評価しよう。
前々項のように、「利他的行動」を説明することには、見事に成功した。
しかし前項のように、超長期の進化と矛盾することや、断続的な進化を説明できない、ということがある。そういうふうに、限界がある。
両方をまとめれば、長所もあるが、限界もある。
そ� ��で、評価をすれば、こうなる。
「従来の説に比べれば、真実に近づいているが、しかしまだ真実にたどり着いてはいない。いまだ真実とは距離がある」
では、なぜ、限界があるのか? もちろん、利己的遺伝子説の枠内では、自説の限界がどこから来るのかはわからない。ただし、別の説の立場からは、次のように説明することができる。
「利己的遺伝子説は、小進化の理論があるだけで、大進化の理論がない」
どのように感覚器官が機能しない
利己的遺伝子説には、大進化の理論が欠けているのだ。そして、このことは、「自然淘汰による進化」という発想に、必然的に伴うのだ。なぜ? 進化をもたらすのは、自然淘汰だけではないからだ。── 自然淘汰は、確かに重要であるが、それだけでは、「小進化」を起こすだけで、「大進化」を起こすことはない。「大進化」を起こすには、自然淘汰とは別の原理が必要だ。その原理が欠けているから、利己的遺伝子説には学説としての限界があるのである。
[ 付記 ]
この説明は、クラス進化論の立場を知ったとき、ようやく判明することだ。従って、詳しい事情を知るには、クラス進化論を先に理解しておく必要がある。それまでは、根拠は説明されず、結論だけがある。
以上では、利己的遺伝子説とは何かについて説明をした。これは、利己的遺伝子説を説明する、正しい説明である。
ただし、一方で、利己的遺伝子説に対する誤解も生じた。この誤解は、広く見られる誤解なので、いちおう解説しておこう。
( ※ 利己的遺伝子説ではないものを「利己的遺伝子説だ」と誤解している人が多いので。)
利己的遺伝子説については、次のような解釈も生じた。
「利己的遺伝子説は、ただの遺伝子淘汰という概念にすぎない。それを擬人的に表現しただけだ」
これは、しばしば見られる解釈である。しかしながら、これは誤解である。「遺伝子淘汰」という概念にばかりとらわれて、一番肝心の根源(上記の「基本」)を見失ってしまっている。
何事であれ、表面的な数字にとらわれると、物事の本質を見失いやすい。その例が、ここにも現れたことになる。
前記の誤解は、なぜ誤解であるか? この誤解は、どこをどう勘違いしているのか? その説明をしよう。
間違いを正すために、正しい表現をすれば、次のように正誤訂正される。
(誤)「利己的遺伝子説は、ただの遺伝子淘汰という概念にすぎない」
(正)「利己的遺伝子説は、遺伝子淘汰という概念を前提に据えた上で、『個体よりも遺伝子が優先する』という主張をしたことだ」
利己的遺伝子説の本質は、遺伝子淘汰という概念ではない。遺伝子淘汰という概念は、ドーキンス以前から広く知られていた概念であって、別に、目新しくも何ともない。現代ではただの当り前の常識だ、とも言える。
利己的遺伝子説の本質は、遺伝子淘汰という概念ではなく、「個体よりも遺伝子が優先する」という発想だ。この発想が本質的だ。そして、この発想から、「個体は遺伝子の乗り物である」という、利己的遺伝子説に特有の主張が現れる。
以上のことをわきまえた上で、利己的遺伝子説とは何かを説明しよう。
利己的遺伝子説の本質は、「個体よりも遺伝子が優先する」という発想だ。ただし、これは、ダーウィン説と比較した場合の差にすぎない。比較して差を示すのではなく、利己 的遺伝子説そのものを説明するなら、どうなるか? 次のようになる。
「生物の本質は、個体の増殖ではなく、遺伝子の増殖である」
これが利己的遺伝子説の主張だ。
ここで、ダーウィン説と利己的遺伝子説を比較すれば、「増殖」という共通点を除いて、「個体/遺伝子」という違いが生じる。だから、この違いだけに着目する人が多い。しかし、それは不正確な認識である。
正確に言えば、両者の差は、「個体/遺伝子」ではなく、「個体の増殖/遺伝子の増殖」という差である。── この違いに基づいて、のちに、「個体淘汰/遺伝子淘汰」という違いが出る。
実を言うと、「血縁淘汰説」や「利己的遺伝子説」は、理論としては完全に破綻している、とも言える。一般的な場合はともかく、ミツバチの場合については、完全に破綻している。
(1) 理論の根幹
「ミツバチは、自分の子でなく、自分の妹を育てる。それは、自分の子よりも、自分の妹の方が、血縁度が高い( or 自分の遺伝子を多くもつ)からだ」
というのが、「血縁淘汰説」や「利己的遺伝子説」の説明だった。しかし、この説は、完全に破綻している。
この件は、次の箇所で説明した。
→ ミツバチの利他的行動 3 (血縁度の計算の正しい計算法)
(2) 自分の遺伝子という概念
また、利己的遺伝子に特有の「自分の遺伝子」という概念は、実は根本的に成立しない。「自分の遺伝子」なんてものは存在しないからだ。
(たとえば、血液型がA型の人にとって、A型の遺伝子は、その人だけの遺伝子ではなくて、A型である多数の人々の遺伝子だ。そんなものを特定の一人が「自分の遺伝子」と見なすのは、妥当ではない。発想が根本的に狂っている。比喩的に言えば、万人のものである海を「おれの海だ」と言い張るようなもの。馬鹿げている。)
この件は、次の箇所で説明した。
→ 自分の遺伝子 1
(3) 自分の遺伝子と普通の遺伝子
自分の遺伝子という概念は、おかしい。そのことは、普通の遺伝子と比較するとわかる。
メラニン色素の遺伝子とか、鎌形赤血球の遺伝子とか、そういう個々の形質を決める遺伝子ならばある。しかし、「自分の遺伝子」というものはない。
本来の遺伝子ならば、それはゲノムであり、その塩基はきちんと決まる。電子顕微鏡で分子を見ることもできる。しかし、「自分の遺伝子」は違う。「自分の遺伝子」には、特定の塩基配列などはない。また、電子顕微鏡で分子を見ることもできない。「自分の遺伝子」とは、特定の遺伝子のことではなくて、ある個体に備わるさまざまな遺伝子の全体のことだ。
・ メラニン色素の遺伝子はこれこれ
・ 鎌形赤血球の遺伝子はこれこれ
……
という2万余りの遺伝子の全体のことだ。
そして、そのような遺伝子全体は、(個体ごとに)自然淘汰で競合することはない。自然淘汰で競合するのは、あくまで、それぞれの形質の遺伝子だ。
要するに、「鎌形赤血球の遺伝子が、自然淘汰で競合する」ということならばあるが、「(各人の)自分の遺伝子が、自然淘汰で競合する」ということはありえない。……これが現代の集団遺伝学の発想だ。
ドーキンスは、本来、集団遺伝学の発想に基づいて、自説を形成した。しかしながら、いつのまにか、自説に反することをやらかしてしまったのだ。「自分の遺伝子」という概念を提出したときに。
というわけで、結論として、次のように言える。
「自分の遺伝子なんてものはない」
RDWの血液検査は何ですか
( ※ では、正しくは? 「自分の遺伝子」という概念を導入しないで、単に形質ごとの遺伝子の増減を考えれば良かったのだ。そうすれば、自己矛盾に陥らないで済んだ。)
( ※ 例。ミツバチの妹育てを説明するときには、「ミツバチが自分の遺伝子を増やそうとする」と語るよりは、「妹育てをする遺伝子が自然淘汰のなかで増えていく」と語ればよかった。そこには「妹育ての遺伝子」という発想はあるが、「自分の遺伝子」という発想はない。)
( ※ 詳しくは → 自分の遺伝子 6 (解説A) )
[ 参考 ]
上の (1) (2) (3)は、血縁淘汰説と利己的遺伝子説の難点を指摘している。
一方、「血縁淘汰説とは何か?」という基本的な話は、総合的に、次のページで解説している。
→ 血縁淘汰説とは [ 重要 ]
では、正解は?
実は、正解が何かは、二通りの分野で示される。「遺伝子淘汰」の分野と、「動物行動」の分野だ。また、それぞれを結ぶものとして、「遺伝子の乗り物」という発想もある。この三つについて、順に述べよう。
遺伝子淘汰についての正解は、次のようになる。
「ドーキンス流の遺伝子解釈を改めて、遺伝子集合淘汰の解釈を取ればいい」
これは、どういうことか?
ドーキンスのいう「遺伝子」は、通常の言葉で呼ばれる「遺伝子」とは異なるのだ。
(1) 通常の言葉で呼ばれる「遺伝子」とは、DNAのことである。それは塩基の列のことであり、一つ一つの分子からなるものである。それは電子顕微鏡で観察できる物質である。
(2) ドーキンスのいう「遺伝子」は、彼の言葉によれば、「永遠で不滅のもの」である。それは「複製」という手段を通じて、時を乗り越えて、太古から未来へと永遠に続くものだ。……これはつまり、「統計の分類項目としての遺伝子」である。それは、数理的に想定された抽象的なものである。(だからこそ永遠となる。)
この二つを区別しよう。
前者(通常の遺伝子)は、物質であり、1回限りのものであり、電子顕微鏡で観察できる物質である。それはまた、同じ「遺伝子」であっても、多様な微小差が見出される。(塩基レベルの変異。一塩基多型 や 点変異 のこと。特に サイレント変異。)
前者(ドーキンスの言う遺伝子)は、物質ではなく、抽象的なものである、。抽象的であって、物質性がないからこそ、永遠不滅のものとなる。「美」とか「偶数」とかいう抽象的概念と同様なのだ。それは、生物学的なものというよりは、統計学の世界にあるものであり、哲学的なものであるとも言える。それが何かは、統計学や哲学の対象にはなるが、生物学の対象にはならない。(電子顕微鏡で観察できる物質ではない。)
ドーキンスの言葉は、しばしば文学的に語られる。それもそのはず。彼の言う「遺伝子」とは、文学的な抽象的な遺伝子なのだ。だから彼は、「遺伝子は永遠だ」としばしば語る。
一方、通常の用語で言う遺伝子は、生物学における遺伝子である。それは、物質とし� �の存在であり、壊れやすいものだ。複製のエラーが起こりやすいし、また、化学反応によってバラバラな塩基に壊れてしまう。それは決して永遠のものではない。(抽象的なものではないから、永遠にはなりえない。)
さて。
こうして、ドーキンスの言う「遺伝子」と、普通の意味の「遺伝子」との、違いがわかった。
このあとで、普通の意味の「遺伝子」という概念を用いれば、あらためて「遺伝子淘汰」の概念を定式化できる。それは、「物質としての遺伝子」の増減を考えることだ。
ここで、遺伝子の増減を考えるならば、同種の遺伝子は「遺伝子集合」としてまとめられる。ある遺伝子の集合 A と、その対立遺伝子の集合 A'について、集合同士で増減を調べればいいのだ。……この発想は「遺伝� �集合淘汰」と呼ばれる。詳しくは、下記を参照。
→ 遺伝子集合淘汰
遺伝子集合淘汰の発想は、集団遺伝学の発想でもある。
( ※ この際、主役は、個々の壊れやすい遺伝子のことを言う。統計的な分類項目としての遺伝子ではない。)
[ 後日記 ]
私とは別の立場から、ドーキンスを批判している人もいた。やはり、ドーキンスの言う「遺伝子」という概念が滅茶苦茶であることを指摘している。上記の話と共通する点もある。……参考のために、リンクを示しておこう。
→ ドーキンス批判のページ ,その続き
ドーキンスの言う遺伝子は、抽象的なものであって、実態はない。それは文学的に表現されたものにすぎない。とすれば、
「個体は遺伝子の乗り物である」
という表現もまた、文学的なものにすぎなくなる。つまり、実体はない。なぜなら、「個体は遺伝子の乗り物である」と言っても、当の「遺伝子」というものは存在しないからだ。彼の言う遺伝子は、実体が無くて、あくまでも抽象的なものである。こうして、
「個体は遺伝子の乗り物である」
という表現は、無効になる。
( ※ この点は、次々項で説明する。)
では、そうとすれば、「ミツバチは妹育てをする」というような動物行動は、どう説明すればいいのか? ドーキンスの説明が駄目ならば、いったいどうすればいいのか?
これについては、簡単だ。ドーキンスとは別に、新たに正解を出せばいい。次項で示すとおり。
動物行動についての正解は、次のようになる。
「血縁淘汰説であれ、利己的遺伝子説であれ、『利己主義』の枠組みで、物事を説明しようとしている。しかし、それは正しくない。正しくは、『利己主義』の枠組みを越えて、『利全主義』の枠組みで論じるべきだ」
この件については、新しい枠組みである「利全主義」という概念を必要とする。ここでは論じきれない。
特に、ミツバチの行動と利全主義については、次のページを参照。
→ ミツバチは利他的行動をするか?
ミツバチの行動について、詳しくは、次のシリーズを参照。
→ ミツバチの利他的行動 (シリーズもの)
「利全主義」については、次のページを参照。
→ 有性生物の本質
→ 利全主義と系統 (生命の真実)
り電子と個体行動の関係については、次のページを参照。
→ [補説] 遺伝子と本能
酵素活性を測定する方法
ドーキンスの「個体は遺伝子の乗り物だ」という発想は駄目だ。(前述)
では、どこがどう駄目なのか? また、どう修正すればいいのか? この点は、次に詳しい話が記してある。そちらを参照。
→ 個体は遺伝子の乗り物か?
ただ、本項でも、簡単に記しておこう。
「個体は遺伝子の乗り物である」
とドーキンスは語った。
では、これは正しいか? 根源的な発想としては成立しない。ドーキンスの言う「遺伝子」というものは、実体をもたないからだ。(前記の通り。)
では、その説明は、妥当性があるか? 言葉の表現を別として、本質だけを見れば、まったくの間違いとは言えない。「遺伝子が個体を操作 する」というような発想は、まったくの間違いとは言えない。とはいえ、まったく正しいとも言えない。
では、どういうことか?
「遺伝子が個体を操作する」というような発想は、集団遺伝学的な発想(本来の発想)では正しいのだが、しかしながら、ドーキンスはその発想をやたらと拡張してしまったため、間違いをも含むようになった。
具体的には、次の通り。
本来ならば、次の意味では正しい。
・ 集団レベルで (マクロ的に)
・ 進化において (進化と遺伝子の関係)
ここでは、「個体は遺伝子の乗り物である」と見なしてよい。
しかしながら、ドーキンスは次のようにも拡張した。
・ 個体レベルで (ミクロ的に)
・ 生命において (個体と遺伝子の関係)
ここでは、「個体は遺伝子の乗り物である」と見なしてはいけない。
ドーキンスは、話を拡張しすぎてしまった。一定領域については正しいことを、あまりにも広い範囲にまで当てはめてしまった。そのせいで、間違いを含むようになった。
さて。利己的遺伝子説を紹介したが、この説とはまったく別の立場に立つ説がある。「クラス進化論」だ。
クラス進化論は、利己的遺伝子説を批判する。特に、遺伝子淘汰説を批判する。
ただしここでは、「個体/遺伝子」という差を批判しているのではなく、「淘汰による進化」という点を批判している。……この点を勘違いする人が多いので、注意しよう。
実際、次のように誤解する人が多い。
「クラス進化論は、利己的遺伝子説を批判する。とすれば、その全部を否定しているはずだ。しかし、遺伝子汰という概念は、当り前のことであって、これを全否定するのはトンデモだ」
この誤解は、勝手な思い込みによる。正しくは、以下のようになる。
自然淘汰という言葉は、実は、二通りの言葉で解釈されている。
第一は、「自然淘汰」という概念そのものだ。つまり、優勝劣敗とい� ��概念だ。優者が増え、劣者が減る。環境に適したものが生き残り、環境に適さないものが減る。それだけのことだ。(いちいち説明するまでもないだろう。)
第二は、「自然淘汰による進化」という学説だ。この説は、自然淘汰という概念を採用した上で、自然淘汰によって進化が起こる、と考える。──この説は、「自然淘汰」のかわりに、「自然淘汰説」と呼ぶといいだろう。
この二つ(自然淘汰という概念と、自然淘汰説)は、別のことなので、混同しないように注意しよう。
一般に、小進化についてなら、両者を混同しても構わない。なぜなら、「自然淘汰による進化」は、まさしく小進化については成立するからだ。
自然淘汰があるということは、小進化があるとい� ��ことだ。かくて、「自然淘汰による進化」は、小進化についてはまさしく成立する。
一方、大進化についてなら、両者を区別する必要がある。なぜなら、「自然淘汰による進化」は、大進化については成立しない(らしい)からだ。
自然淘汰があるからといって、大進化があるということにはならない。大進化があると言えるためには、「小進化の蓄積で大進化が起こる」(連続進化説)ということが必要だ。
しかしながら、このこと(連続進化説)は、まったく実証されていない。それどころか、反証がいっぱい上がっている。(断続的進化など。) かくて、「自然淘汰による進化」は、大進化については成立しない(らしい)。
結局、「自然淘汰」という概念は問題なく成立するのだが、「自然淘汰説」という学説は成立しないらしいのだ。(小進化はともかく大進化については。)
遺伝子淘汰という言葉も、上記の「自然淘汰」についての二通りの解釈が、当てはまる。
第一は、遺伝子淘汰という概念そのものだ。つまり、遺伝子の優勝劣敗だ。
第二は、「遺伝子淘汰による進化」という学説だ。つまり、「遺伝子の優勝劣敗によって進化が起こる」という学説だ。
この両者は、区別される必要がある。
前者(遺伝子淘汰という概念)は、ただの概念にすぎない。いちいち批判するようなことではない。
後者� �「遺伝子淘汰による進化」という学説)は、「進化の原理は遺伝子淘汰だ」と見なす学説だ。しかしながら、これは、成立するとは限らない。理由は、先の「自然淘汰説」と同様である。遺伝子淘汰による進化ということは、小進化には当てはまるが、大進化には当てはまらない(らしい)からだ。その根拠は、自然淘汰説の場合と同じで、断続的進化という反証があるからだ。
以上のことを理解すると、利己的遺伝子説の立場からのクラス進化論批判がどう誤解しているか、わかるだろう。
利己的遺伝子説の立場からは、こういう批判がある。
「クラス進化論は、遺伝子淘汰という概念を否定している。しかし、遺伝子の優勝劣敗というのは、当り前の概念である。これを否定するのは、トン� ��モだ」
これは誤解である。なぜなら、クラス進化論は、遺伝子淘汰という概念を否定していないからだ。
クラス進化論が否定しているのは、「遺伝子淘汰」という概念ではなくて、「遺伝子淘汰による進化」という学説である。
クラス進化論が否定しているのは、「自然淘汰」という概念ではなくて、「自然淘汰による進化」という学説である。
クラス進化論では、「遺伝子淘汰という概念」も肯定するし、「自然淘汰という概念」も肯定する。「淘汰によって小進化が起こる」という説も肯定する。ただし、「淘汰によって大進化が起こる」という説を否定する。
なぜか? 遺伝子淘汰や自然淘汰は、大進化を起こすためには、必要ではあっても十分ではないからだ。遺伝子淘汰や自然淘汰だけでは、大進化は起こらない。それに加えて、別の原理が必要だ。大進化を起こすための原理が。── そして、その原理が、「クラス交差」という原理だ。
この意味で、クラス進化論は、遺伝子淘汰説や自然淘汰説を、拡張しているのである。
遺伝子淘汰説や自然淘汰説では、こう主張する。
「進化のためには、Aが必要だ」
クラス進化論では、こう主張する。
「進化のためには、AとBが必要だ。Aだけでは不足だ」
こういう形で、クラス進化論は、遺伝子淘汰説や自然淘汰説を拡張する。この「拡張」は、「発展解消」とも言えるし、「否定」とも言える。
ところが、勘違いした人は、次のように誤解する。
「クラス進化論は、『Aが必要だ』という説を否定する。ゆえに、クラス進化論は、『Aは必要でない』� ��考えている。しかし、『Aは必要でない』ということは、ありえない。ゆえに、クラス進化論は、トンデモだ」
(着目点が「A」から「必要」にすり替えられてしまっている。)
比喩的に言えば、次のようになる。
ハムエッグを作るには、ハムと卵の両方が必要だ。ただし、ハムはもともとある。足りないのは、卵だけだ。こういう状況があった。
ここで、卵論者は、「ハムエッグを作るには卵が必要だ」と主張した。
ところが南堂は、「卵論者は間違いだ。ハムエッグを作るにはハムと卵が必要だ」と主張した。
すると、卵論者は、怒り狂った。「おれの言い分を否定するということは、ハムエッグには卵が必要でないということだな。しかし、ハムエ� ��グに卵が必要でないと考えるなんて、トンデモだ!」
彼らは、「卵だけ」というのを否定されたとき、「卵の必要性」を否定されたと勘違いする。
ここには、論理的な錯誤がある。
利己的遺伝子説の信者が、どういうふうに勘違いして、クラス進化論を批判しているかは、上記の比喩からわかるだろう。一言で言えば、論理ミスの勘違いである。一種の被害妄想だ。
これは、ただの妄想のようなものであるから、正面切って「きみたちの学説は間違いだ」と難詰するべきではない。彼らの主張そのものは正しいのだ。ただ、妄想の上に立って、正しいことを主張しているにすぎない。妄想が根源なのだ。
「おれの悪口を言われた」というふうに被害妄想に駆られている人には、「誰も悪口なんか言っていま� �んよ」と告げて、妄想から醒ませて上げればいいのだ。ここでは、議論は成立しない。単に「妄想から醒めよ」と告げればいい。それだけだ。
クラス進化論は、利己的遺伝子説への拡張であって、全否定ではない。
一方、利己的遺伝子説への全否定をする発想もある。
利己的遺伝子説への全否定は、何か? それは、本文書の初めに述べたことを思い出せば、わかるだろう。
利己的遺伝子説の本質は、「遺伝子が個体よりも優先する」ということだ。この発想を否定することが、利己的遺伝子説への否定となる。
利己的遺伝子説への全否定とは、遺伝子淘汰という概念を否定することではない。この点、勘違いしないように。
(勘違いする人が非常に多いが。)
利己的遺伝子説への全否定をす� ��としたら、かわりとなる学説が必要となる。では、かわりとなる学説とは? こうだ。
「遺伝子が個体よりも優先するということもないし、かといって、個体が遺伝子に優先するということもない。遺伝子と個体は、どちらが優先するということもなく、相互的な依存関係にある」
比喩的に言おう。
・ 男権主義者 …… 「女よりも男が優先する」
・ 女権主義者 …… 「男よりも女が優先する」
伝統的な立場は、男権主義だった。誰もがそれを信じていた。しかし、女権論者が登場して、新たな立場を唱えた。すると、それによって、多くのことが説明されるようになった。そこで人々は、「女権主義こそが現代の理論だ」と信じるようになった。
ところが、南堂という変人が、次のように主張した。
「男よりも女が優先するというのは、間違いだ。女と男は、相互に依存しあう関係にある」
とたんに、女権主義者が大声で非難した。「女権主義を否定する南堂は、嘘つきだ。この世に女がいなくなったら、人類が消滅してしまうのに、そのことを理解できない。何も理解できない阿呆だ。女性の意義を否定するなんて、南堂はトンデモだ」
南堂が否定しているのは、女ではなくて、「女だけ」ということだ。しかしながら、そこを勘違いしてしまうのだ。
南堂の立場は、「遺伝子が個体に優先する」という立場(利己的遺伝子説)ではない。「遺伝子と個体は相互的に依存する関係にある」という立場だ。
ただし、これは、クラス進化論そのものではない。クラス進化論は、マトリックス淘汰を原理とした学説であるが、その学説と、すぐ前の立場(相互依存関係という立場)とは、同じではない。
利己的遺伝子説を全否定するべきかどうかという話題は、クラス進化論とは別の話題である。これについては、別の場で述べることにして、ここでは述べないでおく。簡単に紹介しておくだけにする。
なお、ついでに紹介しておくなら、南堂は、� �のことを否定する。
「生物の本質は、遺伝子の増殖である」
ただし、ここでは、「遺伝子」を否定するのではなく、「増殖」ということを否定する。
仮に、生物の目的が「遺伝子の増殖」が目的であるなら、人類よりは細菌の方がずっと有利だ。だから、「遺伝子の増殖」が目的であるなら、人類は細菌に《 進化 》するべきなのだ。……しかし、そんなのは、どうしても理屈に合わない。
「遺伝子の増殖」という概念そのものが、「進化」という概念とは相容れないのである。
「生物の本質は、遺伝子の増殖である」
という学説は、確かに、ミツバチの利他的行動などをうまく説明した。しかし、ミツバチの利他的行動などをうまく説明するには、利己的遺伝子説よりももっとうまく説明できる説がある。それは、「遺伝子と個体の相互依存」という発想に基づく説だ。……ただし、そういうことまで述べるには、この文書では足りない。ゆえに、割愛する。
【 参考文書 】
クラス進化論は、利己的遺伝子説を批判する。ただし、正確に言えば、利己的遺伝子説を否定するのではなく、利己的遺伝子説を拡張する。
(詳しくは、次の文書を参照。 → ドーキンス説の問題 )
表紙ページ
[ END. ]
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